あ、これ記事が公開されていたんですね。NHKカルチャーでの対談についての周司あきらさんのまとめです。
個人的にはひたすら「解像度」を上げていこうみたいな発想にはそろそろ限界があるよ、と言うところに割とポイントがあったのですが、伝わったでしょうか。
あと、これは原稿を拝見した段階でお伝えしてあるのですが、「男や女であるとはどういうことかっていうのを最前線で更新しているのは、フェミニズムのなかでのトランスの人たちの重要な貢献」と言う高井さんのご発言は、アクティヴィズムとしてはありかもしれないと思いますが、私はフェミニズム理論の研究者なのでこの表現はあまり正確ではないように思います。
「男や女であるとはどう言うことかを最前線で更新してきた/いる」人々の中には、もちろんトランスやノンバイナリーの人も含まれていますが、あちこちでインターセクショナリティについてお話してきたように、例えば人種的マイノリティの、障がい者の、あるいはブッチやフェムのシス女性たちもまた、ある意味では「最前線」で「女/男であること」を更新してきた、と思うからです。
→ そして、やはり90年代のいわゆるジェンダークィア/越境の時代の議論を見てきた立場からは、このような議論にあたって、多様なシス女性たちの直面してきた問題や彼女たちが作り出してきた抵抗の形式を過小評価しない言説を作っていくこともまた、非常に重要ではないかな、と思っています。
(あの時代の「ジェンダークロッシング」への欲望と熱狂に直面して、「女性性」からの離脱の欲望が他の差異の収奪の形を取り得ることを指摘した論者たちの議論は、私は今でもとても好きだし大事に思っています。そして、あれをいわば「生得的女性の優位性」のようなまったく見当違いの方向に結びつけずに展開して共有していくために、何が必要だった/であるのだろうか、と考えることは多いです)
→ たとえば私はやっぱり、最終的に成功しなかったしその理由はもちろん分析し批判していく必要があるとしても、90年代のいわゆる「ギャル文化」から始まって2000年代のバックラッシュ期にかけて非常に多様な形をとったfemale-female-impersonataionの表現が出てきたこと自体の重要性は評価すべきだし、忘れ去られるべきでもない、と思っているんですよね。
コギャルや山姥の、あるいはそれが死ぬほど叩かれて「モテ」がやたら持ち上げられる裏で出てきたアゲハ系の女の子たちの、それぞれの女性性の表現は、おそらくその多数はシスの、しかも別にフェミニズムやっているわけでもクィアカルチャーにどっぷり浸かっているわけでもない女性たちによるものだったけれど、明らかに「性別について考えたことがない」「女性性を自明のものとみなした」ものではなかった。
少なくともあの女性たちにとって、女性性はかなり意識的に引き受けられ、交渉されたものだっただろう、と思っています。それを私は忘れたくない。
ちなみに全然違う位相の話ですが、あの対談で私が一番驚いたのは、高井さんが「ああこれは自分のことだ、としっくりきたアイデンティティもある」と言っていらしたことです。
私はいわゆるアイデンティティカテゴリーについて「しっくりきた」経験がなく、というか、みんなそういうものなのだろう、と思っていたのですよね。
だから、そもそもアイデンティティというのは自分の外部にあるカテゴリーに誤って同一化した結果に過ぎないんですよ、みたいな説明が、感覚的にすごく腑に落ちるし、誰でもみんな「まあこのあたりならそんなに無理ないかな?」と妥協できるところでとりあえずアイデンティティを引き受けるものなのだと思っていました(逆に言えば、そういう形でもどうしても引きけられるカテゴリーがないのが、例えばノンバイナリーの人たちだったのだろうと思っていました)。
なので、カテゴリーがしっくりくることもあるんだ!みたいなのは、とても新鮮で興味深かったです(若い頃は「しっくり」するアイデンティティがないことにそれなりに悩んだので、その頃なら少し羨ましくもあったと思うw)